小さな部屋だ。客間も含めて八つある屋敷の中で、一番と言っていいはずの狭い部屋を、私たちはもらっている。
ベビーベッドも入っていた時には、理玖を抱えて身動きするのもやっとだったが、今はその場所に木机と椅子、窓際にはシングル・ベッドを置いて、なんとかやっている。眠る時は、添い寝の状態だ。男の子である理玖と、いくつになるまでそうしていていいのかわからないけれど、いつもすぐそばにある温もりや、寝息が愛おしい。
白い壁に、赤茶色の瓦屋根の屋敷は、夫が生まれた頃に建ったそうだ。当時はモダンな建物、羽を広げたように横に伸びた二階建てだが、一階にだけ、角が折れ曲がったようにはみ出した部屋があり、そこが私たちの部屋になった。
ベッドサイドの正方形に切り取られた窓からは、日差しも月明かりも入ってくる。
生後7ヶ月を迎えたが、時々、理玖がこのまま赤ん坊のままでいてくれたらいいのに、と思うこともある。子どもの成長を願わないのは母親失格なのだろうけれど、こんな充足が、この先もあるのかと考えると、時を止めたくなってしまう。
リビングルームからは、かん高い笑い声が響き続けている。もう夜の十時を過ぎているが、今日は一向にお開きにはなる気配がない。
週に一度、俳句教室に通う義母が、帰りに友人らを招いて酒宴を始める。それは最初から聞いていたし、同居を始めるにおいては、他にも幾つもの条件が決められていた。
まず、母子の部屋は、一階にあるその角部屋である。
俳句の日、ならびに客人のある日は、理玖も私も客間には現れないこと。理玖を長泣きさせないこと。義母に理玖の面倒は、断じて頼まないこと。晴れた日には、できるだけ母子で外出をしてくれるように、とも。赤ん坊のおむつや生活感に溢れたものは、目につく場所には置かないこと、などだ。
理玖を抱っこ紐で抱えて同居を頼みに訪ねた日、義母は孫の方をちらっと見たきり、深くため息をつきながら、答えを準備してあったように、リビングのソファに向かい合って、てきぱきとそうした内容を伝えてきた。
「あなたも、いつかわかるわよ。こっちはね、ようやく自由の身になったはずだったんだから」
歓迎されるなんて期待していなかったし、義母が出した条件も、ある意味、清々しかった。私たちにはもう他に頼る当てはなく、少なくとも路頭に迷う不安から放ってくれたのは義母だった。
理玖が生まれてすぐに、夫は迷子になった。俗に言う、失踪者になったのだ。私は仕事を辞めたばかりで、息子の理玖には生まれついての障がい、染色体異常があり、私の実家では両親が早くに離婚、母は三年前に他界していた。
並べてみると、なかなか過酷な状況だったわけだけれど、迷子になった夫から残された手紙には、幸いなことに道標がついていた。
〈勝手なことを言います。理玖をお願いします。君なら、きっと僕の分まで良き親になってあげられます。僕は今、自分一人すら持て余している状態です。
うちの母は、やさしい人間とは言い難く、子ども好きでもない。それで、姉家族とも疎遠なのは、君が知る通りです。ですが、当面、頼ってください。母には伝えておくし、幾ばくかは僕にも用意されてあった父の遺産が使えるはずですから。
同封すべきだと思い用意した書類ですが、提出するしないは、美夏に任せます。リュウ〉
律儀な字で綴られた手紙に添えられた離婚届は、今も私が持っている。夫は、一つの責任を果たすかのように、義母に、私たち母子を受け入れてくれるように頼んであったのだ。
十分に広さのある屋敷に、未亡人となった母親は一人住まいであり、部屋の一つや二つくらいは好きに使わせてくれると思ったはずだった。
月々の生活費も、夫が当てにした通り、義母がしばらく賄ってくれるという。甘やかな優しさなど、求めている場合ではなかった。私は、野太い人間となった。理玖と生きていくために、必要な強さを覚え始めた。

母も子も、今日は風呂に入るのは諦めた方がよさそうだ。窓から外を見上げながら、私に抱き抱えられていた理玖は、むずかりもせずに、まどろみ始めた。一日くらい風呂に入らなくたって、赤ん坊からは清潔な生命力だけが伝わってくる。
急に居間が騒がしくなり、客人たちは玄関へ移動したようだ。やがて扉が開く音がして、客人たちの高い声は外に溢れ出ていった。
「あら、ここ、お嫁さんたちのお部屋、まだ灯りがついてるんじゃない?お孫さん、一目見たかったわ」
一人が言うと、すぐに呼応する。
「顔くらい、出してくれてもいいのに。私たち、煮て食べたりしないわよね」
「気が利かない人なのよ。また今度ね」
なるほど義母は、そういう風に話を収めているらしかった。
「そう言えば、息子さんは、まだ戻らないの?」
「夫婦の問題には、私はノータッチよ。そのうち帰ってくるでしょ」
俳句サークルの客人たちが庭の枯葉を踏みしだく音がする。今日の空には、傾きながら右半分だけが輝いているような明るい月が浮かんでいる。
そうやってよもやま話を続けながら、庭をぶらぶら歩く時間もなかなか終わらない。
「先もわからないのに、お嫁ちゃんを引き受けるなんて、真智子さんは、さすがね」
「ご長女は、反対しなかったの?」
実の娘は、何が理由なのかは知らないけれど、この家にもう長年足を踏み入れていないのだ。夫だって、本当は然りだった。
客人からそう言われたとき、庭先の義母は、果たしてどんな顔をしていたのだろう。
月明かりを受けた女性たちの横顔を、私は想像していた。
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。