◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉
返事ができない。ただ、相手の目をじっと見ていた。日に焼けた皮膚に深く皺の寄った顔の中で、優しい馬の目と、どこか似ていた。そんな嘘をつかせて、申し訳ないと感じた。
「あの、会うまで帰らないと、夫に伝えてもらえますか?」
馬舎の前では、先ほどの眼鏡の女性と、その横に長い黒髪を結んだ女性が、心配そうにこちらを見ていた。
もしかしたら、と、不意に浮かんだ思いがあった。夫はここで、誰か女性の世話になって、生きているのかもしれない。ようやく、そう思い当たった。夫は、一人で身の回りのことが満足にできる人間ではなかった。それだって、勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。
「とにかく、待っていると伝えてください」
「だからさ、誰に伝えるってさ」
その言葉は、彼に似合わず乱暴に響き、さらに続いた。
「うちも、たくさんスタッフがいるしさ。なんか、電話番号でも置いていってもらえますか?もし、誰か心当たりがいたら伝えるようにしますよ」
慌ててバッグを探す。取り出したティッシュペーパーに、なんとかボールペンで電話番号を書いて渡した。ティッシュを取り出す際にバッグにあったパペットが、砂利道に落ちた。ティッシュに書いたメモを手渡し、パペットを拾う。理玖によく似た子、丸い鼻は、オレンジ。黄色い頭に赤い胴。頭の先にはまだまばらな緑色の髪がまっすぐ立っている。
理玖を思い出すと急に、自分の手が、情けないが震えていた。
「とにかく、ここには宿泊できる場所もないし、一旦はお引き取り願えます?」
受け取ったティッシュを、その人は乱暴には扱わず、四つに畳んで持ってくれた。やはり、優しい人なのだった。
「あと少しだけ、あの馬を見ていて構いませんか?」
指をさす。このまま終わってしまうのかもしれなかった。そうしたら、また、夫の居場所さえわからなくなってしまう。
なのに、こんな時でも、馬の美しさに見惚れてしまう気持ちが自分にも残っているのにも驚いていた。中でもあの鹿毛は、きっと蹄鉄を嫌がっていて、それに抗う姿を自らのエネルギーのように表していた。きっと打ったばかりなのだ。蹄鉄を打ちたての馬など、馬術部では、ほとんど会えなかった。大学で引き取ったのは、皆、引退した競走馬たちだった。
美しい毛並みの内側に、筋肉の隆起がはっきりと見えた。しなやかに動き続けた。
「あの鹿毛のことなら、ディープインパクトの血筋なんだわ」
「すごいな。だから、なんだ」
だから、なんだと言うつもりだったのだろう。だから、美しい?いや、確かに美しいけれど、とにかく暴れ馬のごとく、目立っていた。
「蹄鉄を嫌がる馬は、後で強くなることが多いんだ。あんたも、馬が好きなのかい?」
「いえ、もうずっと忘れていました」
「忘れるのも、大事だからね」
「待ってください」
その人は、忙しいとばかりに背を向けて、手をあげる。勝手なことは、言わないでほしい。それで済むはずがないではないか。
彼は黙ってその場を離れ、キャップを取り上げて、髪を掻き上げる。
放馬されている場の奥に建つ、緑色の屋根の家屋の方へと向かった。その時、厩舎の前にいた女性たちに指で合図を送った。女性たちも、家屋へと向かった。
馬たちを見ていると、様々な記憶が蘇ってきた。
はじめて馬の体に触れた時の、あのどこか不安な気持ち。皮膚が柔らかすぎて、今にもこの美しい生き物を壊してしまいそうに感じたこと。
理玖を抱き上げた時にも、同じように不安だった。馬への不安は幾らでも聞いてくれたし、もっともらしい助言までくれたのに、なぜ理玖のことになると、隆也は急に押し黙ってしまったのだろう。自分こそが、怖いのだという風に。怖くて、怖くて、仕方がないのだという風に、次第に理玖にも触れず、何も言葉を口にしなくなったのだ。
ファームに一台のトラックが砂埃をあげて入ってきて、鹿毛の馬が急に駆け出した。(つづく)
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。
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