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コラム

「じゃあって何よ。いちいち腹が立つ」義母は背を向け、リビングの扉を開いた|うさぎの耳〈第八話〉谷村志穂

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「じゃあって何よ。いちいち腹が立つ」義母は背を向け、リビングの扉を開いた|うさぎの耳〈第八話〉谷村志穂

初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉

階下に降りていき、ベビーカーを組み立てた。理玖を乗せていると、義母が玄関先に出てきた。

「ちょっと出かけてきます」

「そんなこと一々いいわよ。だけど、出るなら買い物してきてちょうだい。いつもの通りでいいから」

「お刺身、小さなヒレ肉、サラダ。ビスケットでしょうか。それならもう買ってあります」

「古いお刺身じゃないでしょうね」

「朝のうちに、買いました」

「切り立てがいいでしょうに」

「すみません、じゃあ、もう一度買ってきます」

「じゃあって、何よ。一々腹が立つのよ。それで、どうなったのよ」

義母はそれに白ワイン、いつものと言えば、そう決まっているが、そう言えば白ワインがまだあったか気になった。

「あの、白ワイン、もう切れていますか?」

「そんなことより、返事をしなさいよ」

今日は一段と化粧が濃かった。ロングスカートに薄手のカーディガン。それもいつもと同じ。でも、もしかしたら義母だって、一日案じていたのかもしれなかった。

「高知の情報は違っていて、二人は、今は広島に向かってくれています」

「まるで、捕物帳ね」

うまい例えだと思った。

理玖が待ちきれずに、ベビーカーを叩き始める。

「何か分かったら、すぐお知らせします。あ、白ワイン」

「要らないわよ。今日は、要らない」

と、義母は背を向け、リビングの扉を開いた。

 

拡散。

拡がり、散る。

水しぶき、

くしゃみの飛沫。

お醤油の飛び跳ね。

結局、広島の情報も違っていた。

塾講師は、中休みで出てきた塾のロビーで二人に呼び掛けられると、建物から一目散に逃げ出したそうだ。

と、白坂はまさに捕物帳を伝えてきた。

パッと見、違うようには感じたが、二人は夜遅く、生徒たちが帰るまで塾に残った。

生徒が帰った後は、二人で塾の教室の席に座り、黒板に描きかけだった男の小さくてくちゃくちゃした、丸い字を見つめていたそうだ。

やがて男は、塾が閉まる時間になっても、帰らなかった。

いよいよ、施錠すると言われて塾の外に出た。

「前にも、先生を探しにきた人がいたんですけど、なんかわけがあるんかのぉ」

用務員のような、灰色の作業服姿の男性に言われた。

会うのは諦めかけていたら、暗がりから玄関前に、男が顔を出した。

「もう、追いかけるの、やめてくれないですか?」と懇願してきた。

「ないものはないんです。返したいから、こうやって働いてるんです。少しずつでも必ず返します。待ってくださいよ。俺、男なのに、体でも売れってことですか?」

「なんか、勘違いしているみたいですよ」

と、美咲は、自分らは人探しをしている旨を伝えたそうだ。

「美咲が優しくそう言ってやったのにさ、その男、急に開き直って、いやあ、それは無理でしょう。探されたくなくて、その人も消息を絶ってるんでしょ。あんたたち、素人か。なんなら、俺、少し知恵を貸しましょうか」

男の口真似をして、白坂が伝えてきた。

送られてきた黒板の文字。

隆也のとは、似ても似つかぬ文字だったと、二人も言った。

隆也は馬術部で、よく板書を担当した。

大会での注意事項や、日程の確認、一頭ずつの馬の絵までを描き分けたので、重宝された。

「大きくて、しっかりした、律儀な字だったもんな」

白坂がそう伝えてくれた時、夫の温もりが急に全身に思い出された。

「両方とも、違ったんだ。なんでかな、私、残念なはずなのに、ほっとしてる」

思わず、そう呟いていた。

(つづく)

次の話 「必ず、連れて帰って。失敗は許さないわよ」 義母だって正気じゃいられなかったのだ。|うさぎの耳〈第八話〉谷村志穂
前の話 母でも妻でもなく、ずっと待っている一人の人間|うさぎの耳〈第八話〉谷村志穂

谷村志穂作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。

小説『うさぎの耳』|谷村志穂
子どもの障がい、夫の失踪、ギスギスした義母との暮らし。そんななかで、主人公の美夏は公園で出会った莉子と心を通わせていく。その莉子にも複雑な事情があり…。毛糸の指人形と子どもの果てしない生命力。喪失を抱えるすべての女...
小説『うさぎの耳』|谷村志穂
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