◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉
大学で馬術部に入った時に、はじめに後悔したのはほとんどの子たちが、小さい時から馬術経験者だったことだ。夫の隆也も然り。中には、自分の持ち馬の話をする子たちや、誕生日に新しい馬を買ってもらうという話も聞いた。乗馬大会で、豪華なブランドの景品をもらってママが喜んでいた、という話や。
別世界に来たのは分かっていたが、馬の方も、馬術未経験の新米部員に戸惑っていたのだろう。なかなか上手く触らせてももらえずにいたら、一年目の冬に、隆也が深緑色のノートをくれた。
「クリスマス・プレゼントが、あるんだ」
そう言われて開いてみると、そこには彼のメモがあった。
馬の喜ぶこと、馬の嫌がること、馬という生き物の特徴、律儀な字で、ぎっしり書き込まれてあった。
ノートの最後のページにあったのは、二頭の馬が首を交差させている絵で、その下に〈これからも、がんばろうね Ryu〉と書かれてあった。馬たちは、雌雄なのか、母子なのかはわからなかったが、私には母子のように見えた。馬とも静かに話す隆也は、子煩悩な人に見えていたから。
水色のパペットの頭に、にんじんの飾りをつけた。思いの外、色も優しくて、鼻になる梵天はピンクを、そして鼻の上に、寄せ目を二つつける。ちょうど、出来上がったと思ったら、下から義母に呼ばれた。
「ちょっといい?」
パペットを置いて降りていくと、
「ぐずってたわね」
「上からでも響いてますか?」
「赤ん坊の泣き声って、癇に障るのよね」
私は黙っている。
「買い物、どうするの?雨だから止める?」
「少し冷凍してあるお肉なんかじゃだめでしょうか?」
「何があった?」
本人は白いロングスカート姿で、間違っても雨の中、出ていくつもりはないらしい。
ハーフカットのステーキ用の牛肉や、鶏もも肉があることを伝えた。義母が好きな肉と、サイズはいつも何かの時のために買い置いてある。
「雨だから、お友達、呼びたかったのよね。まあ、いいわ」
私は謝ったりはしない。
「そうだ、これ、隆也と二人分」
エンジのマニキュアに、大ぶりなトルコ石の指輪をはめた手で渡される。
思い起こしていたら、偶然にも、大学馬術部の寄付金納入のお願い、という封書だった。
「寄付金、払うんでしょ。今、開いてちょうだい。ケチだと思われるの、みっともないでしょ」
郵便は、二人が住んでいた住所から転送されて届いていたから、送られてから少し時間が経っていたはずだった。
一人一万八千円の寄付金を、義母が財布から渡してくれる。
「ありがとうございます」
それには素直に頭を下げる。
「明日にでも晴れたら、払ってきます」
「郵便局に行くのなら、気の利いた切手も少し見繕ってきて」
「封書用ですか?葉書用ですか?」
「両方」
わざとゆっくりと発音する。そんな短いやり取りをしている最中に、理玖が泣き始めた。柔らかい雨のような泣き声に、義母は二階を見上げて、大袈裟にため息をついた。スカートの裾を揺らして、彼女の城であるリビングへと戻っていった。
寝起きの理玖に乳房をふくませる。乳房に手を当てて吸い上げていく。
寝て起きてすぐにおっぱいを飲む。
私たちが、コーヒーを飲むみたいに、髪の毛に寝癖をつけたまま、目の前に差し出されたおっぱいを飲む。そんな時の赤ん坊は、まるで王様だ。
ご機嫌になった理玖を、カーペットの床に座らせる。もうすぐ立ち上がりそうで、ベッドのヘリに手をかけたり、シーツを掴んだりしている。
同窓会の封書に書かれていた事務局の番号に、電話をかけた。
三回目のコール音で、通話になる。
「卒業生の高山です」
「高山さん、何期になりますか?」
「何期?ええと」
慌てて封筒を見る。
「じゃあ、いいです。下のお名前を」
「夫婦とも卒業生で、高山美夏と隆也です。住所が変わったのをお知らせしていなくて、会費の納入が遅くなります」
「ああ、確か六十期ですよね。馬術部同士で結婚されたご夫妻のお話、伺っておりますよ」
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。
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