◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉
E駅の外のベンチで莉子を待った。
理玖をベビーカーから出してやり、空に高く抱き上げたり、膝の上に立たせたりしていても、なかなか義母との会話によって始まった胸のつかえが、解けていなかった。
義母に止められた、というのを言い訳に、捜索願を出さずに来た。それはやはり間違えだったのだろうか。出さずにいることで、逃げていたろうか。
「ごめん、ちょっと遅れたね。リーク、くん、今日のお人形はね、ちょっと季節には早いけど、頭にスイカ載せちゃった」
紺色のパペットくんの頭上には、三角のスイカが載っている。理玖は目の前で動いたスイカが、自分の鼻先にチョンチョンと当たるのを、ごーっ、ごーっと息を吸いながら笑っている。
「また素敵な子が生まれましたね」
「そ、リクくんに渡せると思うと張り切っちゃう。海まで歩こうか」
ベビーカーは、莉子が押してくれた。
心地良い、この時期にしかない風が吹き、頬を撫でていく。夫も、どこかでではこの風を感じているはずなのだと信じたかった。
海からの明るい陽射し、浜辺には、サーフボードを手にした人たち、気の早いことにビキニ姿の若い人たちもいる。
ビニールシートは郵便局のもらい物だ。二人で座り、理玖は莉子の両手に抱かれている。
「美夏さん、なんかあった?」
「どうして?」
「何もないなら、いい」
保温ポットの紅茶と、クッキーを出して、莉子にも薦める。
「ひと月ぶりだから、莉子さんに会えたの。何かあったと言えば、まず、私たちの部屋が二階のふた間に昇格しました。あとは、そうだ、この子を編んだ」
ポケットから、パペットを一つ取り出した。
「この間、編んでもらったチョコクッキーの子に、妹を作ってあげようかなんて思って、同じ色の毛糸を探したの。だから今日は、莉子さんのも、私のも紺色のパペット」
カーキのシャツに薄い色のデニムの莉子は、手のひらにパペットを乗せる。
「この頭の飾り、いいね。ピンクのお花が咲いた。よく合ってる。お花の編み方、覚えてくれたんだね。上手だよ」
「ほんとに?」
張り詰めていた胸に、温かい気持ちが注がれていく。
「ねえ、この子は私がもらっていい?明日、里歩に持っていく」
「先生、ありがとうございます」
自分でそう言って、照れ笑いする。
「じゃあ、この子はもらうぜぃ、リクくん」
夏の海の水面が少し銀色がかり、煌めいて見えた。人々の笑い声も弾けて聞こえた。
「いい季節だね」
「ええ、ずっとこんなふうだといいなと思える陽気」
「色々あってもさ、いい季節はいい季節だし、良い陽気の日はあるよね」
莉子が、伸びをしながら言う。
「うわあ、びっくりした。同じことを考えていた、今」
ひと月会えなかった間に、実は莉子から二度、会う約束を反故にされていた。里歩ちゃんの体調が崩れたからだ。
成育が進んだ里歩ちゃんは、これまでの新生児病棟を出て、小児の個室に入った。それで、転院が決まった。先天性の病は、連鎖的に里歩ちゃんを襲ってきた。でも一つずつ乗り越えて、今は個室では、莉子はベッドで添い寝もできるそうだ。
だから、理玖も連れて会いに行ける予定でいたが、環境の変化もあるのか、里歩ちゃんは熱が出たり、体調が崩れがちになって、莉子は、ずいぶん案じていた。
〈少しずつ、少しずつ慣れてくれていったらいいんだけど〉
メールで送られてきた言葉。それでも、莉子の心はいつも前を向いていて、その言葉が自分にとってのお守りにもなっていた。
「夫の捜索願を出すようにと、義母がさっき言い出して。初鰹の話でそう思ったって」
莉子は、今日は、ポットに入れてきた緑茶を私にも注いでくれた。
「警察か。それで見つかるならいいけどね」
それ以上を言わないでくれたのは、莉子の優しさだ。捜索して見つかるのは、何なのだろう。どんな状態の夫なのか、または夫の心の中なのか。もしかしたなら、別の誰かといるひとりの男になっているのかもわからない。帰りたかったら、とっくに帰っているはずなのだ。私たち母子の居場所は、知っているのだから。
波の音が連なって、絶え間なく押し寄せて、つかえそうになる心をさらっていってくれる音だ。
ウゴォー、ウゴーと、理玖は顎を引いて、発音している。
波の音だね、理玖、上手だね。
「で、なんで鰹なんだ?まあ、いいね」
陽の光を浴びて、並んで座っているのが、こんなに心地良いなんて。
頭にお花をつけたパペットを、莉子はもう一度手の平に置いて、反対側の手の人差し指でそっと触れる。
「これってさ、本当は耳だったの、言ったっけ?うさぎの耳だったって」
「指が入る、人形の胴体の部分のこと?」
「そうだよ。うさぎの編みぐるみを里歩に編んであげようと思っててね、耳の部分から編み始めた。そうしたら、コードブルーがかかった。容体は急変。でも、なんとかお医者さんたちが危機を救ってくれて、落ち着いて。心を落ち着かせるために、また編み始めて、そうしたらまだコードブルーなんて時期があったんだよね」
私は保温ポットの蓋であるカップを、強く握る。
「それでね、耳ばかりお守りのように編むようになった。ある時、大作はしばらくは諦めようと思って。耳に指を突っ込んでみたの。しばらく、話し相手になってくれた。これは、パペットだなと思ってね。パペットなら、一日一人生まれてくれるから、里歩もその日も頑張って生きてくれたって思うようになった」
「よく頭に飾りをつけるの、思いつきましたね」
私は独りごちる。
「あのね、だから本当は私、もっといろんなものが編めるわけさ。いつか自慢するから」
「待ってますとも。ね、理玖」
そう言って、二人でではなく、三人で水面の煌めきを遠く眺めた。
商店街を歩きながら、タコをそのまま押しつぶした巨大な煎餅を分け合って頬張った。理玖の口元にも、少しだけ含ませてみる。
目をぱちぱちさせて、またゴーッと声を出した。
「春シラスの時期には、少し遅かったけど」
「シラスは春なのか。莉子さんは、なんでもよく知ってるな」
「さっきの鰹の話じゃないけどさ、私たちはみんな理由を見つけて出かける。そちらにも、ご夫婦の思い出があったわけでしょ?」
「まあ、そんなとこです」
「季節を感じて、旬を味わうなんて、好きな人とじゃなきゃしないもんね。そんな時期もあったんだよね、お互い。私たち夫婦だってシラスを食べに来たよ。でも私は今でも、シラスは好きでも、奴は嫌い。お幸せに、って気持ちもない」
と言って、華奢な莉子は両腕を自分でさする。
「ね、なんか急に冷えてきたね。リクくん、大丈夫かな。寒くないかな」
と、ベビーカーの中をのぞく。
私は腕時計を見た。
「そろそろ、戻りますね」
「そんな時間か。今日はいい日だったね」
駅が混み合わないうちに、私たちはそれぞれの列車に乗った。
最寄駅からの帰り道に、私はやはり買い物をした。何も要らないとは言われたけれど、駅前の肉屋さんのローストビーフは義母の好物だし、自分にもありがたい。あとは、八百屋の店先ではアスパラが美味しそうだった。茹でておけば、義母も食べるかもしれない。他には、細いバゲットを一本。夕飯は、それで十分。
商店街を抜けると、一番端に交番があった。制服を着た警察官が二名、机に向かっている。
顔をあげてこちらを見た。急に鼓動が高鳴った。夫の行方不明を公的に知らせていないことは、罪なのか。今すぐ立ち寄って、捜索願を出すのが役目なのか。
日が暮れる前に帰らねば。今日はもう遅いし、潮風に当たった理玖をお風呂に入れねば。
警官募集や、指名手配犯の顔写真の並ぶポスターの貼られた交番の前で、急に身動きができなくなった。
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。