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コラム

警官募集や、指名手配犯の顔写真の並ぶポスターの貼られた交番の前で、急に身動きができなくなった。|うさぎの耳〈第五話〉谷村志穂

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警官募集や、指名手配犯の顔写真の並ぶポスターの貼られた交番の前で、急に身動きができなくなった。|うさぎの耳〈第五話〉谷村志穂

初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉

E駅の外のベンチで莉子を待った。

理玖をベビーカーから出してやり、空に高く抱き上げたり、膝の上に立たせたりしていても、なかなか義母との会話によって始まった胸のつかえが、解けていなかった。

義母に止められた、というのを言い訳に、捜索願を出さずに来た。それはやはり間違えだったのだろうか。出さずにいることで、逃げていたろうか。

「ごめん、ちょっと遅れたね。リーク、くん、今日のお人形はね、ちょっと季節には早いけど、頭にスイカ載せちゃった」

紺色のパペットくんの頭上には、三角のスイカが載っている。理玖は目の前で動いたスイカが、自分の鼻先にチョンチョンと当たるのを、ごーっ、ごーっと息を吸いながら笑っている。

「また素敵な子が生まれましたね」

「そ、リクくんに渡せると思うと張り切っちゃう。海まで歩こうか」

ベビーカーは、莉子が押してくれた。

心地良い、この時期にしかない風が吹き、頬を撫でていく。夫も、どこかでではこの風を感じているはずなのだと信じたかった。

海からの明るい陽射し、浜辺には、サーフボードを手にした人たち、気の早いことにビキニ姿の若い人たちもいる。

ビニールシートは郵便局のもらい物だ。二人で座り、理玖は莉子の両手に抱かれている。

「美夏さん、なんかあった?」

「どうして?」

「何もないなら、いい」

保温ポットの紅茶と、クッキーを出して、莉子にも薦める。

「ひと月ぶりだから、莉子さんに会えたの。何かあったと言えば、まず、私たちの部屋が二階のふた間に昇格しました。あとは、そうだ、この子を編んだ」

ポケットから、パペットを一つ取り出した。

「この間、編んでもらったチョコクッキーの子に、妹を作ってあげようかなんて思って、同じ色の毛糸を探したの。だから今日は、莉子さんのも、私のも紺色のパペット」

カーキのシャツに薄い色のデニムの莉子は、手のひらにパペットを乗せる。

「この頭の飾り、いいね。ピンクのお花が咲いた。よく合ってる。お花の編み方、覚えてくれたんだね。上手だよ」

「ほんとに?」 

張り詰めていた胸に、温かい気持ちが注がれていく。

「ねえ、この子は私がもらっていい?明日、里歩に持っていく」

「先生、ありがとうございます」

自分でそう言って、照れ笑いする。

「じゃあ、この子はもらうぜぃ、リクくん」

夏の海の水面が少し銀色がかり、煌めいて見えた。人々の笑い声も弾けて聞こえた。

「いい季節だね」

「ええ、ずっとこんなふうだといいなと思える陽気」

「色々あってもさ、いい季節はいい季節だし、良い陽気の日はあるよね」

莉子が、伸びをしながら言う。

「うわあ、びっくりした。同じことを考えていた、今」

ひと月会えなかった間に、実は莉子から二度、会う約束を反故にされていた。里歩ちゃんの体調が崩れたからだ。

成育が進んだ里歩ちゃんは、これまでの新生児病棟を出て、小児の個室に入った。それで、転院が決まった。先天性の病は、連鎖的に里歩ちゃんを襲ってきた。でも一つずつ乗り越えて、今は個室では、莉子はベッドで添い寝もできるそうだ。

だから、理玖も連れて会いに行ける予定でいたが、環境の変化もあるのか、里歩ちゃんは熱が出たり、体調が崩れがちになって、莉子は、ずいぶん案じていた。

〈少しずつ、少しずつ慣れてくれていったらいいんだけど〉

メールで送られてきた言葉。それでも、莉子の心はいつも前を向いていて、その言葉が自分にとってのお守りにもなっていた。

「夫の捜索願を出すようにと、義母がさっき言い出して。初鰹の話でそう思ったって」

莉子は、今日は、ポットに入れてきた緑茶を私にも注いでくれた。

「警察か。それで見つかるならいいけどね」

それ以上を言わないでくれたのは、莉子の優しさだ。捜索して見つかるのは、何なのだろう。どんな状態の夫なのか、または夫の心の中なのか。もしかしたなら、別の誰かといるひとりの男になっているのかもわからない。帰りたかったら、とっくに帰っているはずなのだ。私たち母子の居場所は、知っているのだから。

波の音が連なって、絶え間なく押し寄せて、つかえそうになる心をさらっていってくれる音だ。

ウゴォー、ウゴーと、理玖は顎を引いて、発音している。

波の音だね、理玖、上手だね。 

「で、なんで鰹なんだ?まあ、いいね」

陽の光を浴びて、並んで座っているのが、こんなに心地良いなんて。

頭にお花をつけたパペットを、莉子はもう一度手の平に置いて、反対側の手の人差し指でそっと触れる。

「これってさ、本当は耳だったの、言ったっけ?うさぎの耳だったって」

「指が入る、人形の胴体の部分のこと?」

「そうだよ。うさぎの編みぐるみを里歩に編んであげようと思っててね、耳の部分から編み始めた。そうしたら、コードブルーがかかった。容体は急変。でも、なんとかお医者さんたちが危機を救ってくれて、落ち着いて。心を落ち着かせるために、また編み始めて、そうしたらまだコードブルーなんて時期があったんだよね」

私は保温ポットの蓋であるカップを、強く握る。

「それでね、耳ばかりお守りのように編むようになった。ある時、大作はしばらくは諦めようと思って。耳に指を突っ込んでみたの。しばらく、話し相手になってくれた。これは、パペットだなと思ってね。パペットなら、一日一人生まれてくれるから、里歩もその日も頑張って生きてくれたって思うようになった」

「よく頭に飾りをつけるの、思いつきましたね」

私は独りごちる。

「あのね、だから本当は私、もっといろんなものが編めるわけさ。いつか自慢するから」

「待ってますとも。ね、理玖」

そう言って、二人でではなく、三人で水面の煌めきを遠く眺めた。

 

商店街を歩きながら、タコをそのまま押しつぶした巨大な煎餅を分け合って頬張った。理玖の口元にも、少しだけ含ませてみる。

目をぱちぱちさせて、またゴーッと声を出した。

「春シラスの時期には、少し遅かったけど」

「シラスは春なのか。莉子さんは、なんでもよく知ってるな」

「さっきの鰹の話じゃないけどさ、私たちはみんな理由を見つけて出かける。そちらにも、ご夫婦の思い出があったわけでしょ?」

「まあ、そんなとこです」

「季節を感じて、旬を味わうなんて、好きな人とじゃなきゃしないもんね。そんな時期もあったんだよね、お互い。私たち夫婦だってシラスを食べに来たよ。でも私は今でも、シラスは好きでも、奴は嫌い。お幸せに、って気持ちもない」

と言って、華奢な莉子は両腕を自分でさする。

「ね、なんか急に冷えてきたね。リクくん、大丈夫かな。寒くないかな」

と、ベビーカーの中をのぞく。

私は腕時計を見た。

「そろそろ、戻りますね」

「そんな時間か。今日はいい日だったね」

駅が混み合わないうちに、私たちはそれぞれの列車に乗った。

 

最寄駅からの帰り道に、私はやはり買い物をした。何も要らないとは言われたけれど、駅前の肉屋さんのローストビーフは義母の好物だし、自分にもありがたい。あとは、八百屋の店先ではアスパラが美味しそうだった。茹でておけば、義母も食べるかもしれない。他には、細いバゲットを一本。夕飯は、それで十分。

商店街を抜けると、一番端に交番があった。制服を着た警察官が二名、机に向かっている。

顔をあげてこちらを見た。急に鼓動が高鳴った。夫の行方不明を公的に知らせていないことは、罪なのか。今すぐ立ち寄って、捜索願を出すのが役目なのか。

日が暮れる前に帰らねば。今日はもう遅いし、潮風に当たった理玖をお風呂に入れねば。

警官募集や、指名手配犯の顔写真の並ぶポスターの貼られた交番の前で、急に身動きができなくなった。

 

▶次の話 自分だけを無条件で頼りにしてくれることに、無力なはずの自分が全力で応えることだけが私の毎日の意味だった。|うさぎの耳〈第六話〉
◀前の話 実の母が、「あの子なら」と言うのだから、そこには自分の知らない夫がいるのかもしれない|うさぎの耳〈第五話〉

谷村志穂作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。

小説『うさぎの耳』|谷村志穂
子どもの障がい、夫の失踪、ギスギスした義母との暮らし。そんななかで、主人公の美夏は公園で出会った莉子と心を通わせていく。その莉子にも複雑な事情があり…。毛糸の指人形と子どもの果てしない生命力。喪失を抱えるすべての女...
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