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コラム

実の母が、「あの子なら」と言うのだから、そこには自分の知らない夫がいるのかもしれない|うさぎの耳〈第五話〉谷村志穂

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実の母が、「あの子なら」と言うのだから、そこには自分の知らない夫がいるのかもしれない|うさぎの耳〈第五話〉谷村志穂

初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉

「今日は何を召し上がりますか?」

玄関先のベビーカーで、理玖はすでに待機中だ。リビングの扉に手をかけて慌てている私に、義母は訝しく目を細めた。

「出かけるの?だったらその前に、バスルームを片付けていってちょうだい」

「何か散らかっていたでしょうか?」 

バスルームを出るときには、いつも掃除も終えて出る。

「黄色い洗面器だとか、アヒルだとか、やめてくれない?」

端に寄せておいたのだが、気に入らないようだった。洗面器を頭に乗せてやると、裸の理玖は手で水面を弾いてはしゃいだ。アヒルも大好きなおもちゃだ。殺風景なバスルームにそれくらいは置かせてもらっても良いかとまた勝手に思ってしまった。私は、バスルームにあったそれらを手に持ったまま、玄関でベビーカーに座らせたままの理玖の様子を確認した。

まだメモは書いていないようで、テーブルに白紙の用紙と万年筆が置かれている。それすらも、窓からの光を受けて輝いて見えた。

「あの、ちょっと急ぐので、何か、適当に買ってきましょうか?」

片付けを終えてリビングに戻った私がそう言うと、

「ちょっと、そこに座ってよ」

顎が動き、ソファをさす。

「理玖を、玄関に置いたままなので」

「大人しくしてるうちは、構わないわよ」

窓の外の青い空の下へ、早く出ていきたい。息を深く吸いたい。

「どうしましたか」

「隆也のことよ。あいつ、本当に何の連絡もよこさないの?」

洗面器とアヒルを背中側に回した。思わずアヒルのお腹が押されて、ぷーっという間抜けな音がなった。

「連絡が取れたなら、伝えています」

「あなたね、もう警察に行ったらいいわ。行った方がいい。なんなら、今日にでも行きなさいよ」

行方不明届も捜索願も出してはいけないと言ったのは、義母だった。「行かせるわけにはいかないわよ。そんなことをすれば、家の恥だ」「あの子なら、そのうち帰ってくるわよ。あの子のことなら、あなたよりずっとよくわかってる」「あなたには分からないでしょうけどね、そろそろ帰るわよ。まったく手がかかるわね」

その言葉にすがった私自身もいた。

「今になってお義母さんがそうおっしゃる理由を訊いてもいいですか?」

「別に、もう、そういう時期なんじゃないかと思うだけ」

玄関先で放っておかれている、理玖がぐずり始めた。

そんな簡単に片付けないでほしい。実の母が、「あの子なら」と言うのだから、そこには自分の知らない夫がいるのかもしれない、と賭けていた。いや、やはりその賭けに逃げ込んでいたのだ。

「時期、なんですね。時期というなら、もうはじめからとっくにそうだったじゃないですか」

そう言って立ち上がろうとすると、義母は唇を噛みながら言った。

「あなたは理屈ばっかりね。それは隆也だって嫌になるわよね」

ルーズなワンピース姿の義母は、そう言い放つ。黙って玄関へ出ようとすると、

「少し待ってて。メモを作るから。この間の鰹が美味しかったから、今日はたたきでもらおうかしら」

黙ってメモだけ受け取るつもりで立っていると、掠れた声でこんな呟きが響いた。

「二人で初鰹を食べていたことだってあったんでしょう?そういうの、いい夫婦っていうんじゃないの?そういう時期だってあったわけでしょう?早く見つけて、出てってほしいのよ」

玄関先で靴を履こうとして、手に洗面器を持っていることに気づき、物置にしまった。義母からメモが渡された。

〈何もなし〉

流れるような字で、わざわざそう書かれていた。

「たたきも、要らないんですね?」

「あの子だって、今頃どこかでは季節を感じてるはずでしょう?隆也は、頭のいい子なのよ。幼稚園の頃から旬のものだってすぐに覚えて。なぜそんな子が鬱になるの?あなたが追い詰めたんでしょ?」

私は、義母の心が荒ぶってくるようで、そして荒ぶった心に乗せられるさまざまな感情に飲み込まれそうで、逃げるように外に出た。

同時に義母の話に出るような夫と過ごした時間も思い出した。何の贅沢をしたわけでもなかったが、突然思い立って、旅に出た。話に出た鰹を求めて高知まで十時間以上かけて出かけたことだってあった。まだ学生だった時だ。寝台特急から特急へと乗り継いだ。電車は揺れて、車窓の景色は刻々と変わっていった。

有名な足摺岬までは、バスで出かけた。断崖から見下ろしていると、黒潮がぶつかる。「波が生き物みたいだな」と、隆也は言った。断崖の舳(へさき)まで進んで、しばらく覗き込んでいた。目的だった鰹は、もう名前は忘れてしまったが、海辺に並ぶ建物で食べた。わら焼きの燻された匂いが充満していた。

隆也は旺盛に食べていたが、本当にただ鰹が目当てだったのか。

隆也、あなたは今どこにいるの?ちゃんと食べて、生きてるよね?時々でも、理玖や私のことを思いだしてる?理玖は、もうお風呂ではしゃいで遊ぶんだよ。

 

▶次の話 警官募集や、指名手配犯の顔写真の並ぶポスターの貼られた交番の前で、急に身動きができなくなった。|うさぎの耳〈第五話〉
◀前の話 義母の方こそ、角部屋に私たちを閉じ込めていることに疲れていたのかもしれない。|うさぎの耳〈第五話〉

谷村志穂作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。

小説『うさぎの耳』|谷村志穂
子どもの障がい、夫の失踪、ギスギスした義母との暮らし。そんななかで、主人公の美夏は公園で出会った莉子と心を通わせていく。その莉子にも複雑な事情があり…。毛糸の指人形と子どもの果てしない生命力。喪失を抱えるすべての女...
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