◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉
理玖にとってのはじめては、この公園で名前を呼んでもらった日から、次々続いている。指人形だってそうだし、今日は、シャボン玉だ。ある日は図書館の絵本も、莉子が借りてきて読んでくれた。読むというより、それは「ころころ」と「にゃーん」の音ばかりが出てくる絵本だったが、その音を理玖に聞かせてくれたのだ。理玖はその音を聞いていた。そして確かに、蛍光ピンクの線だけで描かれた毛玉や猫の絵を、その目は追っていた。
笑ったのだ。淡い色の口元を開いて、感嘆とも、ため息とも取れる声を出して笑っていた。私は、驚いていた。理玖が絵本を読むなんて、まだ、そんな日は、ずっと先だと思っていたから。とても想像がつかなかったから。
たくさんの驚きをもらい、かぎ針も進み、指先で編まれていくピンクの色に気持ちが弾み、私はきっと調子に乗ってしまっていたのだと思う。糸に指をかけながら、呟いていた。
「莉子さんみたいな人が、本当のいいお母さんになるんでしょうね」
彼女の細い指が動きを止めた。
しばらく間があり、
「どお?できた」
少し冷えた声に聞こえた。
「いえ、私、今日はここからしましまに挑戦したいんです」
「別に同じだけど。ただ、糸を変えるだけ」
やけに早口だった。
「どう糸をつなぐんですか?」
彼女は手を止めたままだった。
ベンチに置いたバッグから、ポットを取り出した。カップに注ぐ音、紅茶の香り、莉子はそれを口にした。
理玖がぐずり始めた。香りに誘われ空腹を訴えているようだった。なだめるようにベビーカーを揺らしてみるが収まらず、理玖を抱き上げる。少し空中で揺らしてみる。もうずっしりと重い。抱きしめて、温もりを伝え合って、背中を叩きながら、あやしてみる。理玖、ごめん、もう少し我慢して。これは、はっきり言って、ママの都合。もう少し、莉子さんとお話させて欲しいと、心の中で懇願する。
莉子は、隣でじっと見ていた。いつもより、大きな目に見えた。
ぐずっていた理玖が、莉子に向かって手を伸ばし、笑顔になった。莉子も、その指先をつかみ、
「かわいいな」
と、呟いた。
「この子は、天使だね」
「いつも、そう言ってくれますね」
噴水の向こうでは、先ほどのグループが、帰り支度を始めているようだった。
「あなたはさ、いい人過ぎるんだよ」
いきなり、そう言われた。
「それに、無防備だよ。あの人たちの方がずっと正しい。前に、指人形を褒められたから、どうぞって言ったら、一人にはっきり言われたよ。すみません、こんな時代ですからって。もらったふりをして、捨てた人もいた。だからもう、本当はお母さん方と関わるの、懲りてた」
私は莉子について、勝手に、自分と同じように、この公園には誰も知り合いなんていない人だと思い込んでいた。彼女と自分たち母子だけが、ここで、冬の公園で、長い影法師の下で、出会ったように思っていた。その偶然に意味を持たせようと、必死に手繰り寄せていた。
莉子のそうした話し声が掠れて響いた時にも、理玖は、お、お、と声を出していた。まるで、今ここにいる誰をも励ましているように。
理玖、がんばれ、がんばれって言っているみたいだね。
「またでいいかな?しましま」
「待って、莉子さん。私、何か気を悪くさせてしまったんなら、先に謝りたい」
莉子は、眉をしかめて苦笑した。
「だから、謝らないでよ。こっちが、余計なこと言いたくなるから」
言ってほしいと思った。夫の隆也だって、きっと言いたいことがあったはずなのだ。頼むから、黙って消えたりしないでほしい。私に原因があるのなら、教えてくれないだろうか。
なのに私こそ、余計なことを訊いてしまいそうで、
「見てください。しましまをしようとすると、こんな風に段差ができてしまうから」
急いで指を動かし、編み足した先を見てもらった。指が少し震えていた。
「それでいいんだよ。それでも立派なしましまだよ」
莉子の声は急に柔らかくなった。荷物をバッグに押し入れて、
「じゃあ、またね。天使のリクくん」
そう言うと立ち上がり、こちらに微笑みかけた。
「本当に余計なことだけど、ちゃんと公園で友達作った方がいいよ。お母さん方は、みんなそれぞれ貴重な情報を持ってる。子育ての術を張りめぐらせて生きてる。きっと、リクくんのためになるんじゃない?」
そう言うと、風のように去っていった。その背中にも、理玖は、お、お、と声を発した。
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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。
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