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コラム

毎日の雲の様子や、刻々と変わる空の色|うさぎの耳〈第二話〉谷村志穂

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毎日の雲の様子や、刻々と変わる空の色|うさぎの耳〈第二話〉谷村志穂

初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉

この公園は、公民館と隣接している。雨風も凌げるし、トイレでは、おむつ替えなどもできるので、いつも子どもを遊ばせているお母さん方や、若くてはつらつとしたお父さん方の姿で賑わっている。遊具のある遊び場も、水場もあり、周囲はヒマラヤスギが覆っていて木陰もある。

私には、誰もが眩しかった。友人たちで、一緒に笑い合ったりしている。

なので、余計なことを考えてしまいそうで、ずっと顔を上げずに過ごしてきた。見上げるなら空しか、見ていなかった。毎日の雲の様子や、刻々と変わる空の色、そして、ベビーカーにいて、同じように空を見上げて、時折私の顔を見ては笑ってくれる理玖のこと。世の中で、たった一人、私を必要としてくれる存在。

「美夏さん、美しい夏か。私は、飯村莉子。草冠の莉という字。リクくんは?」

「理科の理に、王へんに久しいで玖、と書きます」

夫と二人でその名前をつけた日のことなら、昨日のように覚えている。私は、リクという音の響きに甘やかさを覚え、夫は王へんが二つ並ぶ名前を子どもへ贈った。

「きっと、意味があるんでしょうね。でも、私でいいのかな」と、莉子は自分の耳たぶに触れた。

「この公園で知り合いになるの、私でいい?他のお母さんたちは、もっとハンターみたいだよ」

「ハンター?」

「そう、失礼な言い方だとは思うけど、公園デビューって言葉もあるんでしょう?同じ月齢くらいの子どもさんを見つけると、子どもの名前を訊いて、仲よくなって、そこからは、誰々ママって言い合ってる」

「なぜ、ハンターなんですか?」

「ターゲットを見つけたハンターみたいに、進んでいく、ように見えるの、私、意地悪なのかな」

どうしてこの公園に通うのか、なぜか訊けなかった。自分も訊かれたくないと思っているからだろうか。

「じゃあ私は、パペットのママを、ハンティングしちゃったかな」

自分でそう言うと、彼女は少し首を傾けて苦笑いをした。

「そうか、悪いけど先に言っておく。私、LINEもやらないし、約束も苦手。それで構わないなら、また会おう」

傷付かなかったわけではないが、清々しくもあった。

「私もLINE、ほとんど使っていません。お互い、変わってますよね」

「お、そうか」

と、莉子が胸を撃たれたふりをして、二人で笑う。すると不思議なことに、理玖が、身をよじり、声をあげて笑った。あー、あー、という声が伸びた。

 

「持ってきたんです、私。毛糸とかぎ針」

莉子が素直に驚く。

「本当に編む?」

「やってみたい」

「見せて。あ、糸と針の太さはいいね」

理玖とはじめて出かけた三駅隣の手芸用品店で、緑色のパペットを見せて、必要な用具を教えてもらった。糸の色は理玖が手を伸ばしたものを選んだ。ピンクと、水色だ。

鼻先の部分は、梵天と言って、これも各色あることをエプロンをつけた店員さんが案内してくれた。それから、目玉も。

可愛いですね。こんなのが編めたら、楽しいですね、と、店員さんも品物を渡しながら言った。

「じゃあ、始めるよ。最初は、輪に編みます」

と、莉子がその細い指で金色のかぎ針を動かす。

「輪に、編む」

ただその言葉が、胸を揺らす。見様見真似で指を動かし始める。

その時風が吹いて、色とりどりの枯葉が宙を舞い始めた。

 

「ただいま、遅くなりました」

と、言いかけた言葉尻を飲み込んだ。

きちんと手入れされた幅広の革靴が一足。義母の俳句仲間が一人、訪ねているようだった。確か、理玖のブランケットが届いた日にも、その靴があった。

慌ててスマホを確認すると、

〈来客があります。〉

義母からは、一行だけそうメールがあったのに、気づいていなかった。

〈。〉の後には、なのでお静かに、とか、食事は自分でなんとかするようにとか、そう言うニュアンスが含まれるはずだった。ひっそり帰宅して、ベビーカーを畳み物置に収納して、角部屋まで入っていけばよいのだ。

「あら、お帰りじゃない?」

客人の声が、廊下を伝った先のリビングから届く。ぶら下げてきた買い物袋を上り框に下ろし、理玖を脇に抱え、ベビーカーを畳んでいると、客人が出てきてしまった。

「まあ、赤ちゃん。ようやく会えた。抱っこさせて」

長いスカートをはいた客人はするりと理玖を抱き上げ、あやすように体を左右に揺らした。

「お外はもう、寒かったでしょう?大丈夫?風邪引かない?あら、ご機嫌さんね」

理玖は今日、二度も同じ言葉を向けられた。本当に表情が豊かになってきたのだ。

「それ、食材?真智子さん、あなた、運んでくださいな」

客人に名前を呼ばれてリビングから出てきた義母が、こちらに愛想笑いをし、

「お帰りなさい。遅かったじゃない」

買い物袋に収まった食材を運んでいきながら言い含む。

「あなた、食事はもう済ませたんですもんね」

私は客人に挨拶をし、理玖を再び受け取り、自分たちの部屋に戻った。

せめて、買い物袋から、みたらし団子だけでも取り出しておけばよかったと思う。なかなか、空腹だ。保温ポットにはまだカフェオレが残っているが、この時間にカフェインを摂ると、理玖は寝付きが悪くなる。

「ママ、ちゃんと出るかな」

ベッドに座り、自分でセーターの上から胸を触ってみる。少し張りもなく頼りない感覚がある。

だが膝の上に抱いた理玖の口元が近づき、乳首が含まれると、母乳は滴るようにあふれ始めた。吸い上げられていく力がずいぶん強くなった。この悦楽は、母親にしか得られない褒美なのだろう。

莉子が、ママのおっぱいは最強グルメでしょう、と言ったのが思い出され、笑えてきた。

母乳を必死に吸い上げながら、理玖の両手が動く。澄んだ肌の色のその両手で五本の指が動き、空をつかむ。今日よりもよい明日を、理玖はきっとつかむ。

次の話 光、プリズム、揺らめくシャボン玉|うさぎの耳〈第三話〉

前の話 見つめることや、知り合うことを|うさぎの耳〈第二話〉谷村志穂

谷村志穂作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。

小説『うさぎの耳』|谷村志穂
子どもの障がい、夫の失踪、ギスギスした義母との暮らし。そんななかで、主人公の美夏は公園で出会った莉子と心を通わせていく。その莉子にも複雑な事情があり…。毛糸の指人形と子どもの果てしない生命力。喪失を抱えるすべての女...
小説『うさぎの耳』|谷村志穂
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