プレスリリース
紙の本が年々読まれなくなっている。一方、デジタル教科書が正式な教科書に。そんな時代に、あえて「電子書籍なんてまっぴらだ」と叫ぶ真意とは? 林望先生が最新刊『書物を楽しむ』に込めた熱い思い。
株式会社朝日新聞出版
2026.04.13
林望著『書物を楽しむ―あえて今、紙の本を読む理由』が、2026年4月13日(月)、朝日新聞出版より発売されました。今、紙の本には逆風が吹いています。昨年(2025年)の紙の出版物の販売額は9647億円。1996年が約2兆6000億円でしたから、30年で半分以下になりました。さらに、政府はデジタル教科書を紙と同様に正式な教科書と位置付け、小中学校で無償配布の対象とする法律の改正案を閣議決定しました(2026年4月7日)。電子書籍が小学校でも当たり前の時代になります。そんな中、本書ではあえて、林先生が紙の本の素晴らしさを熱く語ります。リンボウ節炸裂の1冊です。

「読書をきちんと経験した人、読書の楽しさを知っている人たちにとっては、電子本は、しばしばフラストレーションのもとになります。『ああ、紙ならこんな面倒くさいことしなくて済むのにな』と、常に思います。」
と語る林望先生は、読書は紙のみ。電子書籍は使いません。
さらに、「書物は買って読め」「図書館で借りて読んだ本の知恵は借り物の知恵」「読書会は時間の無駄」「読書量と人格は比例しない」などなど、書物に関してユニークで熱い思いをお持ちです。そんな林先生の「書物愛」を、本書からいくつかご紹介します。
そうしたことは、じつはのっぴきならず大事なことです。
何を学んできたのかということは、とりもなおさず「自分が何者であるか」というアイデンティティの問題でもあるからです。それを思えば、電子教科書なぞは、人間を愚昧化する政策の最たるものと言えます。
年々歳々、学校の授業では古典文学なんか読まなくていいというようになってきて、漢文などもほとんど教えないという学校も少なくないらしいのです。私たちのころは、漢文・古文・現代文の3つを学んだのであったけれど、今は「国語総合」とかいって、現代文も古文も一緒くたにして教え、古典文学を学ぶことが質量ともに貧しくなっており、概していえば、古文や漢文はごくおざなり……まあやってもやらなくてもいい、というようなことになっているらしい。
なんという情けないことでしょうか。日本の文学は文字のテキストだけでも、『古事記』あるいは『万葉集』から数えれば1300年もの歴史があるというのに、こんな貧弱な姿では、我々の祖先の文学をちゃんと読解することなどおぼつかない限りです。古典を読んだことのない若者たちに、どうやって日本人としての誇りを持たせるのでしょうか。
イギリスでシェイクスピアの戯曲が書かれて500年くらい。それに対して、日本という国が持っている、文学や書物の長く豊潤な歴史ということを考えると、712年にできた『古事記』から数えれば、現在まで1314年になるし、759年に作られた『万葉集』から数えても1231年になります。それから一度も王朝が亡んだり交代したりすることなく、現在まで連綿と無数の古典文学作品を作りつづけ、書物として伝えつづけてきた国は、世界広しといえども、わが日本だけで、世界中ほかにはどこにもそんな国はないのです。
教科書をデジタルにすると、確かにタブレット1つ持っていれば、それで済むかもしれない。けれど、それだけを持って登校する生徒たちの姿を想像すると、便利ではあっても、学校生活の味わいがない、という気がします。
今後、デジタル教科書で育った子どもたちが社会の大勢を占めるようになったら、日本の古典文学なんかを勉強しようと思う人がいなくなってしまうかもしれません。たとえば、中国では、共産党が天下を握ってから文字を簡体字にしてしまった。そのため、今の中国の人は昔の本をまったく読めないのです。かつて正字であった繁体字で書かれていると、何の字だかわからない。そこで文化の断絶が起こってしまい、全く古典を理解できない人が大半になって、何千年も昔から蓄積されてきた、哲学、歴史、文学、学術、等々の根幹を形成する「書物」を、国民の大多数が読むこともできず、むろん書くこともできない……それは一国の存立から言えば、歴史の喪失、文化的蓄積の断絶ということですから、もう亡国の兆しです。
大罪1 手触りやデザインが楽しめない
まず、電子本は日本人にとっては、読書の形としては、どうもあまりしっくり来ません。
第一、電子本には「装訂」「書姿」というものがありません。
「お、面白い装訂だな」
「きれいな本!」
というような、「形としての書物の魅力」が、電子本にはありません。
人間は、「ものの形」に執着を持つもので、だからこそ、家でも車でも、あるいは道具類でも、魅力ある形、手触り、使い勝手のよしあし、というようなことに並々ならぬ執着を感じて、どうせ同じような内容・コンテンツなら、デザインの良いものを手にしたい、
あるいは本についていえば紙質のよいものを持って読みたい、そんな意識があるものです。
とくに日本人は、その書姿に対する希求・執着が著しい民族だということを、ぜひ指摘しておきたいと思います。
この、本を手に取るという行為……、肌触り、紙の感じ、活字のスタイル、それらがみんな本の味わいで、日本人はとくに、「この本、デザインがいいなあ」とか思う。それが紙の本の価値でもあるのです。
しかし電子本にはそれがありません。パソコンなどで見ると、電子本のところには同じような無味乾燥の「本のマーク」のようなものが並んでいて、どういう装訂だろうかなんてことはあり得ない。我々にとって装訂はとても大事なもの、やはり紙の本というのは日本人の書物愛を象徴する形であるに違いありません。
一方で、電子本というものが現れたことで、紙の本のよさを再認識している部分もあるかもしれません。今の若い人たちも、おそらくそうしたことが薄っすらと分かってきていると思います。それが、日本では電子本はほとんどが漫画という現実に反映しているような気もします。
また、もともと和紙で作られていた日本の書物のよさが、今日だんだん見直されたりしてきています。句集などを出す人たちは、和紙風の紙をページに使ったりなどして、風雅な装訂を志向する傾向がありますから。
大罪2以降は長くなりすぎるので、項目だけ列記します。(詳細は本書でご確認ください)
大罪2 電子本は読んだ気がしない
大罪3 電源が切れたらおしまい
大罪4 本の姿が直に見えない
大罪5 “育てる〞ことができない
大罪6 データが突然消えてしまう
大罪7 無駄にアップデートしていく
「本は図書館で借りて読むな」
「自分の本を読め」
と言っています。図書館の本を片っ端から借りてきては「自分は、月に何十冊読んだ」とか言って自慢する人がいますが、「あなたのその読書は、すべて借りものの知識ですよ」というふうに私は思うのです。
なぜなら、よほど深い感銘を受けた本の場合を除いて、人は読んだ本の内容を、時間とともに忘れていきます。しまいに、「さて、そんな本読んだことあったかなあ……」という不確実な状態になるのが普通です。
しかし、自分で買った本で読書した場合、その本は、毎日のように目に触れることになる。すると、たとえば「ああ、この本には、しかじかのことが書いてあったなぁ」と、過去の読書経験がリマインドされてくる。
そのことが、大事なのです。
図書館で借りた本を読んだ場合には、その本を返すと、その瞬間に「読んだ内容」をも返却してしまう……というのが実相です。なにしろ当該の本が身近に置いてあるわけではないので、一日一日とその本の読書記憶は薄くなり、失われていって、しまいにそんな本を読んだことすら忘れてしまうかもしれません。
いやいや、そんなことはない、読んで感銘を受けた本だったら、図書館の本でもちゃんと記憶してるぞ、という人があるかもしれませんが、もしほんとうにあなたの人生に影響を与えるほどの感銘を齎した本なのだとしたら、どうしてその本を座右に具えて、随時また読み直しては感銘を新たにしようと思わないのでしょうか。
私だったら、そういう素晴らしい本は、衣食を節してでも自分のお金を出して買って座右に具え、毎日でも眺めていたいと思います。それが本を愛する者の、真実の思いです。
読んで、「読んだぞ」と思って、そのことで満足し、すぐに本を図書館に返してしまって、自腹を切って買おうとも思わない程度のことであれば、ま、そんな読書はいずれ雲霞と消えてゆきます。そういうものなんです。
別に本を読んだからといって偉いこともなく、読まないから駄目だということもない。
人の教養や善悪というものは、そういう単純なものではないのです。
読書がもし本当に人を偉くするのであれば、大学教授などはみんな人格者でなければならないはずですが、現今の状況を見ていると、不道徳で人格のよろしからぬ大学教授などは掃いて捨てるほどいる、それもまた一つの厳然たる現実です。
結局のところ、「万人すべからく之を読むべし」と推奨する本など存在しない……人間、一人ひとりの性格も違い、生まれた家も人生の巡り合わせも違い、興味の持ち方も違っている。そうすると、それは十人十色、百人百様ですから、「100人が100人全部がこの本を読まなかったらだめだ」という本は、理論的にはあり得ないと私は思います。
戦前の旧制高校なんかでは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」などと言って、それらはみな青年の必読書だと喧伝されていたかもしれないけれども、ではそれらはどこまで役に立ったのかというと、はなはだ疑問です。
いっぽうまた、私たちの学生時代、すなわち昭和三、四〇年代時分は、「サルトル」「サルトル」とか言って、「実存主義」大流行の時代でした。じっさいサルトルが来日して大学などで講演もしたりして、それはもう盛大なものでした。私も、流行に脅迫されて多少読んでみましたが、無論原語フランス語では読めないので、日本語訳を読んだのですが、まあ何を言っているのかさっぱり理解できないへんてこな文章でした。
時移って、今では「実存主義」という言葉もさっぱり聞かなくなりました。だから、そういうのは一種の「流行」に過ぎないと私は思います。同様に、曰く構造主義、曰くポスト構造主義云々と、海の向こうから流行の思想が伝来します。
けれども、それらは私の人生にはまるっきりなんの関わりもありません。
書物を手に―序に代えて
1章 活字は紙に限る
2章 電子書籍の7つの大罪
3章 本は捨てないほうがよい
4章 古書の味わい、書店の思い出
5章 図書館との付き合い方
6章 書評との付き合い方
7章 読書の楽しみを見出すまで
8章 私の愛読書
書後に
『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』
著者:林望
定価:990円(本体900円+税10%)
発売日:2026年4月13日(月曜日)
体裁:256ページ、新書判
https://www.amazon.co.jp/dp/4022953616
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電子書籍はフラストレーションのもと
「電子本を読むとしても、スマホではだいいち小さくて目が疲れるし、タブレットでは重くて手が疲れる。とても文庫本を寝転んで読む快楽と同じにはなりません。つまり、本というものは、その形、存在のすがたが、千年を超える長い長い歴史のなかで完成されてきた世界なので、それをたかだか数十年の電子ものが取って代わることなど想像すらできません。」「読書をきちんと経験した人、読書の楽しさを知っている人たちにとっては、電子本は、しばしばフラストレーションのもとになります。『ああ、紙ならこんな面倒くさいことしなくて済むのにな』と、常に思います。」
と語る林望先生は、読書は紙のみ。電子書籍は使いません。
さらに、「書物は買って読め」「図書館で借りて読んだ本の知恵は借り物の知恵」「読書会は時間の無駄」「読書量と人格は比例しない」などなど、書物に関してユニークで熱い思いをお持ちです。そんな林先生の「書物愛」を、本書からいくつかご紹介します。
デジタル教科書は愚昧化政策
今、まったくナンセンスだと私が痛切に感じているのが、デジタル教科書です。これはなんとしても阻止しなければなりません。私は小学校のころから、使った教科書を今でも全て保存してあります。何度も引っ越しをしたけれど、捨てずに持ってきた。それを見ると、自分の生きてきた歴史がそこにあるのです。そうしたことは、じつはのっぴきならず大事なことです。
何を学んできたのかということは、とりもなおさず「自分が何者であるか」というアイデンティティの問題でもあるからです。それを思えば、電子教科書なぞは、人間を愚昧化する政策の最たるものと言えます。
年々歳々、学校の授業では古典文学なんか読まなくていいというようになってきて、漢文などもほとんど教えないという学校も少なくないらしいのです。私たちのころは、漢文・古文・現代文の3つを学んだのであったけれど、今は「国語総合」とかいって、現代文も古文も一緒くたにして教え、古典文学を学ぶことが質量ともに貧しくなっており、概していえば、古文や漢文はごくおざなり……まあやってもやらなくてもいい、というようなことになっているらしい。
なんという情けないことでしょうか。日本の文学は文字のテキストだけでも、『古事記』あるいは『万葉集』から数えれば1300年もの歴史があるというのに、こんな貧弱な姿では、我々の祖先の文学をちゃんと読解することなどおぼつかない限りです。古典を読んだことのない若者たちに、どうやって日本人としての誇りを持たせるのでしょうか。
イギリスでシェイクスピアの戯曲が書かれて500年くらい。それに対して、日本という国が持っている、文学や書物の長く豊潤な歴史ということを考えると、712年にできた『古事記』から数えれば、現在まで1314年になるし、759年に作られた『万葉集』から数えても1231年になります。それから一度も王朝が亡んだり交代したりすることなく、現在まで連綿と無数の古典文学作品を作りつづけ、書物として伝えつづけてきた国は、世界広しといえども、わが日本だけで、世界中ほかにはどこにもそんな国はないのです。
教科書をデジタルにすると、確かにタブレット1つ持っていれば、それで済むかもしれない。けれど、それだけを持って登校する生徒たちの姿を想像すると、便利ではあっても、学校生活の味わいがない、という気がします。
今後、デジタル教科書で育った子どもたちが社会の大勢を占めるようになったら、日本の古典文学なんかを勉強しようと思う人がいなくなってしまうかもしれません。たとえば、中国では、共産党が天下を握ってから文字を簡体字にしてしまった。そのため、今の中国の人は昔の本をまったく読めないのです。かつて正字であった繁体字で書かれていると、何の字だかわからない。そこで文化の断絶が起こってしまい、全く古典を理解できない人が大半になって、何千年も昔から蓄積されてきた、哲学、歴史、文学、学術、等々の根幹を形成する「書物」を、国民の大多数が読むこともできず、むろん書くこともできない……それは一国の存立から言えば、歴史の喪失、文化的蓄積の断絶ということですから、もう亡国の兆しです。
電子書籍の7つの大罪
電子本やデジタル教科書には根源にかかわる大きな問題が七つある、と私は感じています。大罪1 手触りやデザインが楽しめない
まず、電子本は日本人にとっては、読書の形としては、どうもあまりしっくり来ません。
第一、電子本には「装訂」「書姿」というものがありません。
「お、面白い装訂だな」
「きれいな本!」
というような、「形としての書物の魅力」が、電子本にはありません。
人間は、「ものの形」に執着を持つもので、だからこそ、家でも車でも、あるいは道具類でも、魅力ある形、手触り、使い勝手のよしあし、というようなことに並々ならぬ執着を感じて、どうせ同じような内容・コンテンツなら、デザインの良いものを手にしたい、
あるいは本についていえば紙質のよいものを持って読みたい、そんな意識があるものです。
とくに日本人は、その書姿に対する希求・執着が著しい民族だということを、ぜひ指摘しておきたいと思います。
この、本を手に取るという行為……、肌触り、紙の感じ、活字のスタイル、それらがみんな本の味わいで、日本人はとくに、「この本、デザインがいいなあ」とか思う。それが紙の本の価値でもあるのです。
しかし電子本にはそれがありません。パソコンなどで見ると、電子本のところには同じような無味乾燥の「本のマーク」のようなものが並んでいて、どういう装訂だろうかなんてことはあり得ない。我々にとって装訂はとても大事なもの、やはり紙の本というのは日本人の書物愛を象徴する形であるに違いありません。
一方で、電子本というものが現れたことで、紙の本のよさを再認識している部分もあるかもしれません。今の若い人たちも、おそらくそうしたことが薄っすらと分かってきていると思います。それが、日本では電子本はほとんどが漫画という現実に反映しているような気もします。
また、もともと和紙で作られていた日本の書物のよさが、今日だんだん見直されたりしてきています。句集などを出す人たちは、和紙風の紙をページに使ったりなどして、風雅な装訂を志向する傾向がありますから。
大罪2以降は長くなりすぎるので、項目だけ列記します。(詳細は本書でご確認ください)
大罪2 電子本は読んだ気がしない
大罪3 電源が切れたらおしまい
大罪4 本の姿が直に見えない
大罪5 “育てる〞ことができない
大罪6 データが突然消えてしまう
大罪7 無駄にアップデートしていく
本は図書館で借りて読むな
私はかねてより、「本は図書館で借りて読むな」
「自分の本を読め」
と言っています。図書館の本を片っ端から借りてきては「自分は、月に何十冊読んだ」とか言って自慢する人がいますが、「あなたのその読書は、すべて借りものの知識ですよ」というふうに私は思うのです。
なぜなら、よほど深い感銘を受けた本の場合を除いて、人は読んだ本の内容を、時間とともに忘れていきます。しまいに、「さて、そんな本読んだことあったかなあ……」という不確実な状態になるのが普通です。
しかし、自分で買った本で読書した場合、その本は、毎日のように目に触れることになる。すると、たとえば「ああ、この本には、しかじかのことが書いてあったなぁ」と、過去の読書経験がリマインドされてくる。
そのことが、大事なのです。
図書館で借りた本を読んだ場合には、その本を返すと、その瞬間に「読んだ内容」をも返却してしまう……というのが実相です。なにしろ当該の本が身近に置いてあるわけではないので、一日一日とその本の読書記憶は薄くなり、失われていって、しまいにそんな本を読んだことすら忘れてしまうかもしれません。
いやいや、そんなことはない、読んで感銘を受けた本だったら、図書館の本でもちゃんと記憶してるぞ、という人があるかもしれませんが、もしほんとうにあなたの人生に影響を与えるほどの感銘を齎した本なのだとしたら、どうしてその本を座右に具えて、随時また読み直しては感銘を新たにしようと思わないのでしょうか。
私だったら、そういう素晴らしい本は、衣食を節してでも自分のお金を出して買って座右に具え、毎日でも眺めていたいと思います。それが本を愛する者の、真実の思いです。
読んで、「読んだぞ」と思って、そのことで満足し、すぐに本を図書館に返してしまって、自腹を切って買おうとも思わない程度のことであれば、ま、そんな読書はいずれ雲霞と消えてゆきます。そういうものなんです。
読書量と人格は関係なし
「これは絶対に読まなくてはいけない本だ」というように、読書を人格涵養の必須栄養のように言う人がありますが、正直言って、そうしたことはないというのが私の考え方です。別に本を読んだからといって偉いこともなく、読まないから駄目だということもない。
人の教養や善悪というものは、そういう単純なものではないのです。
読書がもし本当に人を偉くするのであれば、大学教授などはみんな人格者でなければならないはずですが、現今の状況を見ていると、不道徳で人格のよろしからぬ大学教授などは掃いて捨てるほどいる、それもまた一つの厳然たる現実です。
結局のところ、「万人すべからく之を読むべし」と推奨する本など存在しない……人間、一人ひとりの性格も違い、生まれた家も人生の巡り合わせも違い、興味の持ち方も違っている。そうすると、それは十人十色、百人百様ですから、「100人が100人全部がこの本を読まなかったらだめだ」という本は、理論的にはあり得ないと私は思います。
戦前の旧制高校なんかでは、「デカルト・カント・ショーペンハウエル」などと言って、それらはみな青年の必読書だと喧伝されていたかもしれないけれども、ではそれらはどこまで役に立ったのかというと、はなはだ疑問です。
いっぽうまた、私たちの学生時代、すなわち昭和三、四〇年代時分は、「サルトル」「サルトル」とか言って、「実存主義」大流行の時代でした。じっさいサルトルが来日して大学などで講演もしたりして、それはもう盛大なものでした。私も、流行に脅迫されて多少読んでみましたが、無論原語フランス語では読めないので、日本語訳を読んだのですが、まあ何を言っているのかさっぱり理解できないへんてこな文章でした。
時移って、今では「実存主義」という言葉もさっぱり聞かなくなりました。だから、そういうのは一種の「流行」に過ぎないと私は思います。同様に、曰く構造主義、曰くポスト構造主義云々と、海の向こうから流行の思想が伝来します。
けれども、それらは私の人生にはまるっきりなんの関わりもありません。
目次
『書物を楽しむ』目次書物を手に―序に代えて
1章 活字は紙に限る
2章 電子書籍の7つの大罪
3章 本は捨てないほうがよい
4章 古書の味わい、書店の思い出
5章 図書館との付き合い方
6章 書評との付き合い方
7章 読書の楽しみを見出すまで
8章 私の愛読書
書後に
『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』
著者:林望
定価:990円(本体900円+税10%)
発売日:2026年4月13日(月曜日)
体裁:256ページ、新書判
https://www.amazon.co.jp/dp/4022953616
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「ウィズ京葉ガス」2026年4月に掲載されました
「ウィズ京葉ガス」2025年11月に掲載されました
「ウィズ京葉ガス」4月号にて掲載されました*








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