相手が重いものを持っている
→ 危ない持ち方だなぁ( 手が出そうになる )
→ 中断
→ 観察
実験では、観察の結果何が起こるかどうか?に注力しましたよね。
この観察の部分を変更します。
ここでは「自分の仕事ではない」と判断して、手伝わないという選択肢を選ぶことができます。
おなじように「頼まれていないけれど、自分から進んで手伝う」ということを、あなたが選択することもできるのです。
相手が重いものを持っている
→ 危ない持ち方だなぁ( 手が出そうになる )
→ 中断
→ 落としても替わりのモノはあるし、そうなっても彼の成長する経験になる
→ 手伝わないと決める
→ 自分の仕事を続ける
相手が重いものを持っている
→ 危ない持ち方だなぁ( 手が出そうになる )
→ 中断
→ 高価で壊れやすい商品だよアレ、やらせて壊れたら絶対後悔する
→ 手伝って持つ
空気を読んで行動した結果、後悔することもあるかもしれません。
「あいつのためにするんじゃなかった」
「自分が大変になって損した」
おなじように行動した結果、「相手のためにも自分のためにも良かった!」ということもあるでしょう。
空気を読んだけれども行動しないことを選んだ結果、
「どうしてやってあげなかったのか?」
「やってあげたほうがスッキリしたかも……」
という思いが残るとか、後悔や葛藤が残ることも完全にないとは、言えないでしょう。
おなじように行動しないことを選んで、
「荷物を背負い込むことにならなくて良かった」とか、
「自分のために時間を使えるから、期限に間に合いそう」
などと感じることもあるでしょう。
行動しても、後悔することもあるし、よかったと思えることもあります。
行動しなくても、後悔することもあるし、よかったと思えることもあります。
いまの状況を観察して( 空気を読んで )、今後どうなりそうか?
いままでだと、パッと手が出るとか、代わりを買って出てしまう場面でも、いったん中断します。
そこでこう考えるのです。
・○○をすると、こんな結果になりそう
・何もしないと、こんな結果になりそう
ではどちらを選ぶことがいいだろうか?
いったん空気を読んだ自分に気づいて、流されることを止めます。
そうして
「空気を読むとこうなると思うけれど、それを自分がするのかどうか?」
という選択、決断をします。
ただ流されるように空気を読んで「行動させられたようになる」ことと、
状況を観察し、過去の経験、持っている情報や知識を利用し、未来を予想することで、
「あなた自身で決める」というプロセスを差し込んで決定することの間には、とても大きな差があります。
空気を読んで行動することとは、自動的な行動になり易いものです。
「しょうがないな」
「私がしなきゃ」
だから私が……
こんなふうに自然にしてしまいませんか?
そこに自分の意志はあるのか?
それはしたいことなのか?
別の可能性や選択肢はないのか?
「なんとなく」「自然に」「つい」という行動をいったん置いて、自分で選んで決める。
長く難しく書いてしまったかもしれませんが、
空気を読んで行動できるという長所、得意なカタチ、
言ってみれば自動的なパターン化した順番の中に、
「自分で選んで決める」ということを追加しましょう、ということです。
大人としての良識を身につけているのであるならば、
良い結果であっても悪い結果であっても、ポジティブに受け入れやすいはずです。
それは「自分で選択して決めた」という、主体的な判断ですから。
自分で選ぶことには責任があります。
同時に「やらされた」こととは、全く違うものなのです。